蘭渓道隆は弘安年間(1278~88)に、後宇多天皇より「大覚禅師」の勅号を授与された。これは日本で最初の禅師号である。
大覚禅師が伝えた臨済禅は鎌倉の地に根をおろし、後世において広く日本文化に影響を及ぼした。
来歴
1213年(建暦3年/嘉定6年)
南宋の西蜀涪州(現・中華人民共和国重慶市涪陵区)に生まれる。
1225年(嘉禄元年/宝慶元年)
13歳のとき、成都大慈寺で出家。その後、諸方を行脚して蘇州陽山の尊相寺に至り、臨済宗松源派の無明慧性〈むみょうえしょう〉の下で大悟嗣法した。
その後、南宋禅林の無準師範〈ぶしゅんしばん〉、癡絶道冲〈ちぜつどうちゅう〉、北礀居簡〈ほっかんきょかん〉などの名僧にも学ぶ。
1246年(寛元4年)
34歳のとき、日本に禅を弘めようと強く決意し、宋人の弟子数人をともない来日。
筑前博多に上陸して博多・円覚寺に滞在したのち、在宋時代の知己である月翁智鏡〈げっとうちきょう〉を訪ねて上京。京都泉涌寺〈せんにゅうじ〉に滞在。
1248年(宝治2年)
鎌倉にくだり、寿福寺に入る。同年末、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼公(1227~1263)に請われ常楽禅寺(現・神奈川県大船市)の住持となる。
1253年(建長5年)
北条時頼公を開基とし、蘭渓道隆を開山として建長寺落慶が行われる。
以後、蘭渓は建長寺を拠点として南宋禅の普及に努める。蘭渓のもとには多くの僧侶が集まり、南宋禅林の規式に則した修行が実践された。
蘭渓が記した「法語規則」(国宝)は現在まで建長寺に伝えられている。
蘭渓が本格的な南宋禅を伝えたことは、その後、建長寺で学んだ禅僧の多くが海を渡り中国を目指したことにつながる。かれらは書画・精進料理・喫茶といった最先端の文化を伝える役割を果たし、このことは後世、日本文化の形成に大きな影響を及ぼした。
1262年(弘長2年)
50歳のとき、兀庵普寧〈ごったんふねい〉に建長寺住持を引き継ぎ、京都建仁寺の住持となる。
1264年(文永元年)
建長寺の住持に復帰。第七代執権北条時宗公(1251~84)の帰依を受ける。その後、甲斐・信濃・奥羽などを遍歴し、鎌倉寿福寺住持も務める。
1277年(建治3年)
鎌倉に戻り、寿福寺住持に復帰する。
1278年(弘安元年)7月24日
66歳、三度目の建長寺住持に就任。
同年、建長寺にて示寂。次の遺偈が伝わっている。
「翳睛(えいせい)の術を用いること、三十余年、筋斗を打翻すれば、地轉(うた)たし天旋(めぐ)る」